ひとくち法話

智慧と慈悲の仏さま

 阿弥陀さまは智慧と慈悲の仏さまと言われます。
智慧とは「すべてのもののいのちは我がいのちである」と見てくださる仏さまのまなざしです。私のいのちと仏さまのいのちを「一つのいのち」と見てくださる。“一つ”とはどういうことか?指先を怪我したら、指先だけが痛いんですか?全身が痛いんです。全身が指先の痛みを感じるのです。それが“一つ”ということ。あなたの痛みは私の痛みなんだ。だから放っておけないと私の痛みを共にしてくださる。そういったお心を慈悲と言います。
 私の痛みを仏さま自身の痛みとして、放っておかないと今ここにはたらいてくださるのが阿弥陀さまという仏さまです。
 十数年前になりますが、あるご門徒さんの亡くなったご主人の月命日にお参りをさせていただいた時のことです。それは、ご主人のお葬式、四十九日、百ヵ日が終わってから、初めての月忌参りのご縁でした。私が仏壇の前でお勤めを終えて後ろを振り返ると、一緒にお参りしていた奥さんが涙を流し泣いていました。私が何も言えずにおりましたら、奥さんが問わず語りにこうおっしゃいます。「親戚や周りの人たちから、百ヵ日も終わったんやし、いつまでも泣いとったらご主人が心配するから、もう泣き止まなあかんって言われるんです。私もいつまでも泣いとったらあかんと思ってるけど、一人になると思わず知らず涙が出てくるんです。こんなことではあきませんね・・。」
 とても仲のいいご夫婦でしたから、その奥さんの気持ちは私もよく分かりました。いえ、それは違います。その方の悲しみを想像し思いを致すことは出来ても、本当の意味でその方の気持ちを分かることは私には出来ません。
 『仏説無量寿経』に「独生独死 独去独来」とあります。私たちは皆それぞれ独り(一人)の世界を生きているということです。隣にいる人の痛みが私には分からないように、隣の人も私の痛みを分かってはくれません。私のいのち、私の生きる世界は私一人が引き受けていかねばならない。それが私たちの娑婆という境涯の厳しさです。
 その一人で生きる私を知ってくださるお方がいてくださいます。それが阿弥陀さまです。ご主人を亡くした奥さんが一人で流す涙、阿弥陀さまは知っています。阿弥陀さまは一緒に涙を流して泣いています。なぜか?一つのいのちだから。私と一ついのちということは、阿弥陀さまは私の人生、私が見て聞いて感じる世界を一緒に経験してくださっているということなのです。だからこそ「あなたの痛み苦しみ悲しみは、私の痛み苦しみ悲しみなんだ。どんなことがあっても決して見捨てないよ」といつまでもどこまでも私とご一緒してくださるのです。
 この智慧と慈悲のお心がはたらきとして私に届いているのが、南無阿弥陀仏のお名号です。私一人生きる世界にありながら、私は決して一人ではありませんでした。智慧と慈悲の仏さまとご一緒させていただくいのち、人生であることを、南無阿弥陀仏とお念仏申すところにお聞かせいただくことであります。