はじめに

〇はじめに

そもそも仏教とは・・

 仏教は、今から二千五百年ほど前、インドに出生された釈尊(しゃくそん)(お釈迦様の尊称である釈迦牟尼世尊の略)がお示しになった教えです。
 仏教とは、「仏の教え」です。「仏」とは、仏陀(Buddha)という言葉を省略したもので、「さとったもの」「真実に目覚めたもの」という意味です。「真実に目覚めたもの」である釈尊がその内容を説かれた教えということで、仏教とは「さとったもの・真実に目覚めたものの教え」であると言えます。
 また、仏の教えを聞いた者が、真実に目覚め仏に成ることを目的とするので、仏教とは「仏(真実に目覚めたもの)に成る教え」であると言えます。 仏の教えを通して自分自身を見つめ、仏の姿(真実のあり方)を尊いこととして生きる道を歩んでいくことが、仏に成ることを目指すということです。

ルンビニ 釈尊誕生のレリーフ

釈尊の教え

 釈尊は、「人生は苦なり」と私たちの人生の現実を示されました。苦とは、老・病・死の様に潜在的に私たちが抱えている根本的な苦しみを言います。そしてその苦しみをつくり出しているのは自らの煩悩※であることを、釈尊は見極められました。例えば、老いること・病気になること・死ぬこと自体は苦ではなく、「いつまでも若く、健康で、長く生きたい」と願う私の思いが老病死を苦にするのです。私たちの思いは常に自己中心的であるので、現実が自分の思い通りになるように願います。釈尊はこの心(煩悩※)が、苦しみを生む根源であると見抜かれたのです。

※煩悩
 心身を煩わし悩ます心のはたらきのこと。人間の本能欲が自己中心の心にとらわれ
てしまうことによって起こる。数多くある中で代表的なものを三毒の煩悩という。
     貪欲:自分にとって都合のいいものを貪り求める心
     瞋恚:自分の思い通りにならないことへの怒りの心
     愚痴:自己中心の見方しかできず、真実が見えていない愚かな心 

 また釈尊は、煩悩によって苦が生じるのは、私たちが「ものの本当のあり方」を知らないこと(無明、愚痴)にあるとされました。 では「ものの本当のあり方」とは、どういうことをいうのでしょうか。
 私たちの周りのすべてのものは互いに深く関わり合って存在しており、単独で存在するものは何ひとつありません。私は私だけで生きているのではなく、多くのいのちとの関係によって存在しているのです。互いが繋がり合い生かされて生きているということ。それが「縁起※」と言われるあり方です。

※縁起
 「縁起」とは「因縁生起」の略で「すべてのものは因縁によって成り立っている(生まれ起こっている)」という意味です。「因」は直接原因、「縁」は間接原因の   ことです。
 例えば、一輪の花が咲いているとします。花が咲いていることを「果(結果)」とすると、その種が「因(原因)」です。しかし種だけでは花は咲きません。水、土、日光、肥料、人の手による世話など様々な条件「縁」が種にはたらいて花は咲くのです。

 またすべてのものは縁起としての存在ですから、それらのどこにも永遠に変わらない実体のようなものはありません。その様にすべてのものに固定的な実体はないということを「諸法無我」と言います。また、すべてのものは常に変化していて、変わらずに存在し続けるものは一つとしてありません。このことを「諸行無常」と言います。いずれも、ものの本当のあり方です。
 これらのものの本当のあり方は、釈尊が明らかにされたことによって私たちは知ることができましたが、釈尊が発見して新しく生じたわけではありません。釈尊が発見するか否かにかかわらず、事実としてあり続けていることなのです。その事実(ものの本当のあり方)が「真如・真実・法」と言われる仏教の真理です。

 ものの本当のあり方(縁起・無我・無常)を知らないこと(無明・愚痴)によって、私たちは迷いの世界をつくり出しています。しかし、ものの本当のあり方を正しく見ることによって、私たちは迷いから目覚め(悟り)へと転換されるのです。その「もののあり方を正しく見る能力(ありのままにものを見る力)」を、「智慧」と言います。そしてその智慧を体得したものを「仏」と呼ぶのです。

お経とは

ブッダガヤの菩提樹

 釈尊は四十五年間、八十歳で亡くなられるまで、多くの人々に法を説かれました。その釈尊の説法を聞いたお弟子たちが記憶に基づいて編集したものが経典(お経)です。釈尊の説法は「対機説法」と言われるように、聞く人に応じて説かれたので、それを編集した経典も多くの種類になりました。経典はすべて釈尊が私たちにどの様にして仏になるのかの方法を示されたものです。この経典を通して、私たちは釈尊の教えを知ることができるのです。
 多くの経典の中で、私が仏になるために最も適した教えを説いているものはどれなのかを選び、その経典をもとに日本においては鎌倉時代に仏教の宗派が数多く生まれました。
 浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、阿弥陀如来による救いが説かれた『無量寿経』(『観無量寿経』・『阿弥陀経』)を、所依の(拠り所とする)経典とし、この『無量寿経』の教えの内容こそが「浄土真宗」であり、「真実の教え」であると示されました。

浄土真宗とは

 仏教は、煩悩(自己中心の心)を滅してさとりに至る(智慧を体得する=仏に成る)ことを目的とします。では、煩悩を断ち切ることのできないものはどうすればよいのか。これは、親鸞聖人自身が問題とされたところです。
 親鸞聖人は、法然上人から教えを受け、仏の側からのはたらきかけにより、仏になるように育てられる「他力」の道に出遇われました。自らが煩悩を無くして仏になるのではなく、阿弥陀如来(阿弥陀仏)という仏様のはたらきによって救われていくのです。
 それは「煩悩を抱えたままでしか生きていくことの出来ない、苦しみ悩むものを必ず救う」と願い(本願)、はたらいてくださる阿弥陀如来の「あなたのいのち引き受けた。この阿弥陀にまかせてくれよ」という喚び声(名号:南無阿陀仏)を聞き、仰せのままに仏様のはからいにまかせて(信心)、今ここで念仏(南無阿陀仏)喜び申す身となり、臨終の時に浄土に往生し仏とならせていただく(さとりを開く)という仏道です。

 阿弥陀如来のはたらきは、仏様の話(ご法話)を聞くこと(聴聞)によって知らされます。阿弥陀如来は智慧と慈悲のこころ、まなざしを持った仏様です。仏様の智慧のまなざしを聞かせていただくことで私自身の姿が知らされます。そしてその私を決して見捨てず必ず救うという慈悲のこころが念仏となり、常によびかけはたらいてくださっていることを気付かせていただくのです。
 浄土真宗の究極的な意味での救いは、今ここでいのちの行方が定まり、いのち尽きる時に浄土に往生し成仏するということですが、同時に阿弥陀如来の智慧と慈悲のこころ、まなざしを通して自分の姿を見つめつつ、自分中心の生き方から仏様を主体とした生き方へと転換されていくことが浄土真宗における救いと言えます。

参考書籍:『仏教を読む 釈尊のさとり親鸞の教え』上山大峻著(本願寺出版社)